祖父は、障害児教育を大学で教えながら研究も色々と重ね、講演会や学会発表の為に全国各地を飛び回っていました。日本小児科学会の設立の為にもかなり精力的に動いていました。日本の将来の為に力を注ぐまでは良かったと思いますが、反面、身体にも負担が多くのしかかっていました。
50代のある日、突然、胸が苦しいと言い救急搬送されました。病名は、心筋梗塞でした。家族から、「働きすぎだから休養しないといけない。このまま、仕事を続けたら命を縮めるかもしれないよ。」とずっと本人に対して言っていたそうです。いつも直ぐ傍にいた祖母は、長生きして欲しかったに違いありません。単身赴任で家を留守にすることが多かったので、一緒に過ごしたかったに違いありません。しかし、全国を飛び回る生活をそのまま続けていました。
某大学を退官して、「看護」の分野に力を入れようと考えていたようで、九州に看護を軸とする大学を設立したいとの思いで、厚生省と九州を日帰りで行き来することが多くなりました。心筋梗塞を経験して60代を過ぎて単身赴任は、心配と家族が感じ、祖母は九州で祖父と暮らすことになりました。
大学が完成して2年目のある日、祖母が外出して帰宅した時に祖父が家の中で倒れていたので救急搬送されました。左側の脳梗塞を発症し、右上半身の麻痺となってしまい認知面や言語面にも障害が出ました。また、半側空間無視や注力障害もありリハビリテーション病院へ転院してリハビリに専念し、杖歩行出来るまでにある程度回復しました。しかし、1期生を見送るまでは、大学での仕事を続けたいとのことで卒業生を見送ってから家に帰ってきました。
2世帯同居生活と介護の日々
祖父が自宅へ帰郷した当時は、私はまだ15歳の年齢でした。杖を突いて歩行できたことを覚えています。自宅も事前にバリアフリー化する為に、廊下に手すりを設置し、玄関の上がり框の段差をなくすための工事を行いました。また、浴室も本人自身で入浴できるよう手すりの取り付けと入浴チェアー等の用意、寝室には、電動ベッドやナースコールを取り付けて改装を施しました。
自宅へ戻ってからの生活は、自分自身で行えないことを介助していましたが、段々と家族の力に頼りがちになってしまい、出来ることも次第に出来なくなっていきました。恐らく、仕事を生き甲斐に生きてきた人だったので、喪失感や無気力な状態になってしまったのかと思われます。真があって人一倍の統率力で社会を牽引してきた祖父でしたが、隠居生活を送るようになってから家族へ甘えたい気持ちがあったのだと思います。
右側の上下肢の麻痺は、脛直型ではない弛緩型の麻痺でした。杖を突いて歩行する時もぶん回し歩行をしていました。家族に甘えるようになって、日常生活動作を家族が手伝うことも多くなり、QOLも落ちてしまい半年程で車椅子の生活となってしまいました。始めの頃は、介護保険制度を利用せず、祖母の意向によって自宅で介護を行っていました。しかし、日中は、祖母一人の力で介護を行うことは難しいと感じ、日中帯はデイサービスを利用することになりました。私も、高校に通いながら祖父の食事介助や入浴、排泄介助を手伝っていました。認知面に関しても低下しており、昼夜逆転や見当識障害が見られるようになり、夜中にも関わらずナースコールが鳴る度に家族の全員が起こされてしまうことが続きました。脳梗塞によるまだら認知症も見られて最近の出来事を忘れてしまったりすることが増えてきました。
尿意や排便の感覚が低下して、入浴中に排便してしまいお風呂のお湯を入れ替えたり、下肢筋力も低下していることから立位の保持もしっかりと出来ず、体重も結構あった為、湯船から出ることも大変だったことを覚えています。
介護保険制度でデイサービスには、通っていたもののヘルパーを自宅内に入ってもらうことには、親族からの強い反対があった為、両親が仕事を抱えながらの介護は大変でした。
帰郷してから1年足らずで完全に寝たきり状態になってしまい、褥瘡も出来る為に体位交換を定期的に行ったり、褥瘡用のマットを購入して対応するなど状態が悪化する一方でした。それから2年後の1999年11月に家族が見守る中、亡くなりました。
生活リズムの大切さ
私がまだ高校生でしたが、祖父の姿を見て介護して感じたことは、「生活リズムを整える」ということです。仕事を生き甲斐にしている人は、沢山いると思いますが、自分の健康管理が行えてこそ仕事に熱中できるものです。また、自分自身の健康管理が出来てこそ、他の命を救ったり人の上に立つことが出来るのだと感じます。
1)規則正しい生活
- 早寝・早起き(夜勤や夜更かし、睡眠時間のバランスが崩れないようにする)
- 1日3食(しっかりと栄養バランスを考えて偏らないようにする)
- 残業はなるだけしないよう心掛ける
- 日々、適度な運動(プール、ジョギング、散歩等)
- 仕事とプライベートの時間をきちんと分ける
- 最低、週に1回は休むこと
2)心の休息時間
現代社会は、とてもストレスが多くストレスが元で精神疾患にかかる患者数が年々増加しています。代表的な疾患として「うつ病」が挙げられるでしょう。4人に1人が一生の内に1度はかかると言われています。心を休めてゆったりとリフレッシュ時間を設けましょう。
最近、「疲れが溜まってしんどいな」「憂鬱な気分だな」「やる気が起きないな」「あまり寝れないな」などと感じたら、注意が必要です。ワークバランスとライフバランスを紙に書き出して原因を探って下さい。
うつ病だけではなく、パニック障害、全般性不安障害、双極性障害など、ストレスで発生してしまいやすい疾患です。1度、発症してしまうとなかなか治しにくく、また、再発のリスクもある病気です。早期発見・早期治療の為にも自分の心とよく相談して生活しましょう。
在宅介護における家族の不安と負担
現在、厚生労働省が地域包括ケアシステムといって、早く病院を退院させて在宅復帰させようという試みを制度化して進めています。本人が中心でその周りに家族、相談員、ケアマネ、医師、看護師、ヘルパー、リハビリといった多職種が連携し合い、在宅で生活していけるような取り組みとなっています。
ALS(筋萎縮性側索硬化症)、パーキンソン病、アルツハイマー型認知症、自閉症スペクトラム障害、脳性麻痺、ダウン症などといった進行性の病気や先天性の障害を抱えている患者の家族は、常に付き添って治る見込みのない本人と向き合い、大変な不安を抱いています。勿論、一番辛いのは本人自身であることに間違いありません。その為、家族は現実を受け入れて病気や障害の理解をしなくてはいけません。進行性の疾患の場合、症状の進行の為に身体機能の低下を伴い出来ることも徐々にできなくなってしまいます。進行を抑える為に医療的な治療は必要ですが、最低限の身体機能の維持を目標とするリハビリも必要とされます。家庭内での生活の中で、できることを時間がかかっても実施していかなければなりません。
また、介護をしていく為には、家族の休息時間を介護の時間に当てていかなければなりません。かなりの労力と根気が必要になってきます。核家族化か進み少子高齢化に伴って、「老々介護」という言葉をよく耳にします。女性の社会進出と社会的な地位の保証がより在宅介護を難しくさせている要因の1つであると私は考えています。では、どうしていけばいいのか。
1つは、「社会資源の活用」でしょう。私の体験談では、介護保険制度が実施されて間もなかった為、また、家族が一丸となって取り組んだことにより、家庭の崩壊までには至らずに済みました。しかし、デイサービスだけではなく訪問看護や訪問介護事業を利用しても良かったように感じました。介護は、一人で決して抱えてはいけない問題です。周囲が如何に早く、「家族の辛さ、しんどさの変化に気づき」助け合っていくのか、ということです。
家族の経済的な負担
私の祖父は、ある程度の地位と財産があったので経済的に困るということはありませんでした。電動ベッドや入浴チェア、手すりや自宅の改装など、実費で購入・負担することができましたが、普通は、実費で購入すると数百万はするので「福祉用具のレンタル」や自宅改装などの国や地方自治体からの助成を受けて、経済的な負担を抑制することができます。その為に、介護保険制度があり45歳以上の人は介護保険料を納めています。
しかし、このまま少子高齢化社会が続けばいずれ介護保険制度が破綻することは目に見えています。団塊の世代が75歳以上の後期高齢者となりつつあり、若者1人で高齢者4人を支えている時代となっています。それによって、制度の見直しが度々改正され、認定調査も厳しくなり介護度がランク落ちするケースが増えています。また、介護保険制度の適用ではなく、障害者の制度の利用を推し進めているのが現状です。
まとめ
私の祖父の介護の経験を通して、「介護の大変さ」「介護の辛さ」という壁にぶつかりました。しかし、大好きな家族であったからこそ見えてくるものもありました。それは、「家族の硬い絆」「家族愛」と表現したらいいでしょうか。祖父の衰えていく姿と向き合いながら、「どのように支えていければいいのか」ということを常に考えさせられました。
2000年という大きな節目を迎えることなく、高校2年生の時に他界しましたが、忙しく日本各地を飛び回り、休む暇なく一緒に過ごす時間もなかった為、最後の2年間は、私にとっても家族にとっても貴重な残りの時間であったことを胸に刻んでいます。
高校卒業し、某専門学校の作業療法士学科に入学し、卒業してから祖父の歩んだ足跡を求めて障害者施設で現在、働いて介護福祉士の資格を取って介助の現場で支援しています。もし、夢が叶うならば、祖父と共に語り合い仕事の話をしたいと心から願います。