母が倒れたのは、私が学生の時でした。
私はその時、友達と電話をしていたのですが、気づくと私の部屋の隣にあるトイレから「う~う~」とうなり声が聞こえてきました。何だろう、と思い覗いてみるとそこには便器に顔を突っ伏した母がいました。「お母さん!」と呼びかけ肩をたたくも、こちらには反応せずうなるばかり。元々酒量の多い人で、この日も夕食時に知人を呼んで酒盛りをした後だったので、急性アルコール中毒にでもなったのかとその時は思っていました。
救急車を呼び、母と一緒に乗り込む
救急車に乗ったけどなかなか車は出発しません。救急隊員の方が母の手や足をチェックし、「これはノウゲだな」という会話をされていました。この時は「ノウゲ」の意味が分からず、ただただ早く車を出してくれと思っていました。
病院に着き、色々な検査をしたあと、医師に呼ばれ話を聞くと「脳梗塞です」と。
「24時間以内に急変して亡くなる可能性があります」と言われ、そこで初めて、「ノウゲ」が脳外科という意味だったこと、そして母が死ぬかもしれないという事態の重さに気づきました。
眠れぬ夜を過ごしましたが、母は急変することはなく、そのまま手術へと入りました
2回目の手術が終わり2日ほど経った日、母の意識が戻り、そこで数日ぶりに会話をしました。しかし会話はできるものの、母は私を娘とは認識できず、遠い親戚と思い込んでいました。
医師には「脳梗塞の前後では性格が変わることがあります。前より怒りっぽくなるかもしれないし、暗くなるかもしれない。できないことも出てくるでしょう。あなたのことも認識できないままかもしれない。数か月寝たきりになるので、車いす生活になる可能性もあります。覚悟はしておいてください」と言われました。娘ではなく、親戚と思われたまま、毎日お見舞いに通いました。
母がやっていた事をやらないといけなかったり、介護について調べたりで忙しかった
母が家計を管理していたので、様々な支払が滞ったり、生活費が下ろせず困ることもありましたが、母の通帳と診断書を持って銀行に行き、なんとかなりました。
今後車いすになるかもしれない、要介護になるかもしれない、入院が長引くかもしれない。色んな心配が出てきて、高額医療費制度や介護認定について調べたり、家のステップを埋めたりしていました。そうやって自分を忙しくすることで、気を紛らわせていたのかもしれません。
奇跡的に回復が進んだが、性格が少し変わった
入院は数か月に渡りましたが、母は当時50歳で脳梗塞患者の中では若い方だったこともあり、なんとか回復が進み、私のことも思い出し、再び歩けるようにもなりました。手足の麻痺もなく、医師には奇跡的と言われるほどでした。
心配していた性格の変化ですが、元々神経質で潔癖だった母は、時間にルーズなのんびり屋になりました。綺麗だった家は散らかり、外食や惣菜が増えましたが、私は前よりも母が穏やかになったので、良かったと思っています。
母が倒れて苦労した経験から、我が家では家計の「見える化」をしました。母と私どちらが倒れても、残った一方が困らないように家計の通帳の暗証番号や場所、引落口座の共有、連絡してほしい人をメモしておくなどです。
もう二度とあんな目はごめんですが、もしまたあった時に今度は苦労しないよう、備えはするようにしています。