脳梗塞の再発防止に本人、家族が出来ること

血液さらり

脳梗塞体験談集

祖父の脳梗塞発症からリハビリそして最期

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祖父が脳梗塞になったのは、四月頃でした。

仕事中、母親からの連絡で祖父が倒れたことを知り、仕事が終わってすぐ病院に。
病院に行くとICUに通され、そこにはドラマでよく見る酸素マスクを付けた祖父がいました。

祖父は農業を営んでいて、動いていないと落ち着かないタイプの人で、祖母と2人暮らしでした。

泡を吹いて倒れていた

倒れた当時、朝に畑仕事をして、家に戻っていたようで、祖母が少し別の場所に行き、戻ると泡を吹いて倒れていたとのことでした。

医師の話によると、一週間もてば意識は戻ると思うが、持たないかもしれない、とのこと。

突然のことに戸惑いながらも仕事の後病院に通い、数日が過ぎた頃、祖父が意識を取り戻し、一般の病室に移動しましたが、左半身に麻痺が残るとのことでした。動くのが好きだった祖父にとっては辛かったと思います。

意識を取り戻してから数週間後にはリハビリを始めました

始めは積極的にしていたリハビリも、思うように身体が動かないせいか、だんだん頻度が減っていき、初めて祖父の涙を見ました。

動きたいのに動けない、動かせないことが大きなストレスだったんだと思いますが、私にはかける言葉も無く、頑張って家に戻ろうとしか言えませんでした。

別の病院に転院

一つ目の大学病院に入院して三カ月が経つ頃、別の病院に転院しました。治療はリハビリだけで、二つ目の病院でも三カ月程で転院、となり、三つ目は老人ホームのような所でした。リハビリは週に3回ほどで、たまに訪れた私や母が持って行ったお菓子を嬉しそうに食べていました。

リハビリが減ったせいか、入院時にはふくよかだった体型が、すっかり痩せていました。それでも食欲があることに安心していたのを今でも覚えています。

ストレスからか、攻撃的になってしまった

三つ目の場所に移って半年ほどだった頃から、ストレスからか、攻撃的になっていきました。私や母が行っても、少しもすると興奮して大声を上げたり、起き上がろうとしたり…そんなストレスは次第に祖父自身に向かい、腕をベッドの柵にぶつけては痣を作るようになり、手を動かせないように拘束されるようになりました。

そんな祖父がかわいそうで、泣きそうになったことも何度もありましたが、月に一度か二度は訪れていました。

老人ホームでは一年ほどいたと思いますが、叔父の希望で別の老人ホームに移ることになりました。この頃にはかなり大人しくなっていましたが、それとともに元気もなくなっていきました。

食欲は衰えていないものの、もう自分で身体の向きを変えることも、ベッドから降りて車椅子に座ることも出来なくなっていました

数ヶ月行けずに久しぶりに見た姿に誰だかわからなかったこともあります。

それでも顔を見せればちゃんと分かってくれるのは幸いでした。麻痺の影響で言葉ははっきり言えなくても、なんとなくわかるほどには話せていました。

ここでは2年半ほどいましたが、その間に肺炎になっては病院に緊急入院したりしていました。

歳のせいもあって、退院してからもだんだんと食生活に制限がかかり、病院に入院したりを繰り返すうちに口数も減っていったのを覚えています。

肺炎で入院していた病院で最期を迎える

脳梗塞になって五年が経った頃、肺炎のため入院していた病院で息を引き取りました

祖父が入院してから、幾度となく、自分の不甲斐なさを感じました。私がもっと金銭的余裕があれば、設備の整った病院に入れて麻痺もマシだったのかも…と思ったりしますが、亡くなる前日に病院に行けたことは本当に良かったと思っています。

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