私の祖父は80歳で脳梗塞を発症しました。
忘れもしません、あるお正月の朝のことです。私は看護師をしていて、12月31日まで勤務、1日はお休みだったので、31日の日勤が終わり実家へと車を走らせました。
その日は、雪でした。夜遅くまで働き、仕事終わりに、徐行走行でいつもの倍以上の時間をかけて帰省しへとへとになり、なんとか年越しそばを食べて寝床につきました。そして、気持ちよく寝ていると元旦の朝、家族から名前を叫ばれ、「じいちゃんがトイレに行ったあと吐いた!」と叩き起こされました。
祖父は、糖尿病を患っており、かけつけて状態をみてすぐに脳梗塞だとわかりました。
救急車を呼びかかりつけの病院へ
私は家族にすぐに救急車を呼ぶように指示し、地元のかかりつけの病院について行きました。
そこは田舎だったこともあり、すぐに隣の隣の市の救急総合病院へ転送となりました。
そう、そこは私の就職先の病院だったのです。数時間前、私はそこでの仕事を終え、ようやく帰省できたのに、数時間後にはまた職場へと戻っていたのでした。
病院までは地元から車で1時間半。救急車でも1時間弱はかかります。私は救急車へ同乗したのですが、こんな緊急時でサイレンも鳴らしているのに、一般の車が避けない、止まらない。こちらは一刻を争う事態だというのに、本当に腹が立ちました。
病院へ着き、検査を終え点滴加療となり祖父は入院となりました
私は入院の書類作成を、まるで仕事のようにこなし休みが休みじゃなくなったなぁと感じていました。
祖父の脳梗塞は、球麻痺の後遺症が残りました。身体は動くし、言葉もしゃべれます。認知機能も思ったほど影響なく、普段のように会話も出来ました。
しかし、食事だけが出来ないのです。食べ物をうまく飲み込めない。そのため、鼻から管を入れ、そこから栄養剤を注入し栄養管理をしていました。
入院中は、時々鼻のチューブが気になり祖父は自分で引き抜くこともあり、抑制のミトンをつけられていました。
普段、仕事柄そんな患者さんは多々いますし、自分も行なっています。安全面を考慮した上での処置ということも理解していますが、やはり自分の家族が抑制されている現状はなかなか直視できませんでした。
祖父の病室へ毎日通う
祖父が入院していた病棟は私の働いている病棟の一階下だったので、私は仕事に行く日も休みの日も毎日病院に通いました
祖父は、慣れない入院生活で私が来ることだけが楽しみになっており、次第に勝手に病棟を抜け出し私を探しにくることもありました。
リハビリ病院へ転院そして施設へと入所
その後、急性期治療を終えリハビリのためにリハビリ病院へ転院となりました。
祖母は、施設にいれようと言っていましたが、母が懸命に治療食の作り方や痰の吸引手技などの家族指導を受け、何度か自宅へ外泊ができるようになりました。
しかし、外泊や外出をするたびに熱を出しやはり自宅での介護は困難であると判断し、実家近くの施設へと入所となったのです。
そのことに対し、祖父は悔やむことも反対することもなく自然と現実を受け入れていました。
施設へ入所してからは、地元に帰ってきたこともあるのか、祖父はリハビリも続けながらとても活き活きとしていました。ただ、食事はできないので胃瘻からの栄養剤で維持している状態でした。
そこから、私は県外の病院へと転職し祖父との面会は数ヶ月に一度くらいとなりました。しかし、身体は元気だし家族も近くにいるので安心していました。
ところが、感染症の流行する季節になり感染対策の一環として家族の面会が半年間できない時期がありました。
最後に会ったのは夏。冬に帰省したときは、母から面会できないと伝えられ断念。
少しでも姿を見ようと、部屋の外から手を振ったりして顔を見ていました。春先に帰省したときもまだダメだと面会は断念。
その帰省のときに、祖父は動き回るからと、ベッドに抑制されているということを母から聞きました。
抑制され始めてから、歩けなくなりトイレにも行けなくなったと。せっかく身体には麻痺がなかったのに、安全を優先し寝たきりにされていたのです。
悔しい思いで私は県外の職場へと戻りました。
祖父が危篤状態だという連絡
そしてある日の朝、夜勤中に家族から祖父が危篤状態だという連絡が。夜勤を少し早めに切り上げて急いで帰省しましたが、祖父は帰らぬ人となっていました。83歳でした。
家族に話を聞くと、家族に連絡が入りかけつけた時点ですでに息を引き取っていた。よくよく病院の話を聞くと見回りに行ったときにはすでに亡くなっていたようでした。
そんなことがあるのかと。ベッドに括り付けておいて夜間の見回りや痰の吸引はしっかりと時間おきに行なっていたのかと、同じ医療者としてすごく腹が立ちました。
そもそも、家族と面会をさせない間に寝たきりにし、家族に会わせないまま亡くならせるなんて。
私は未だに、その施設が憎くてたまりません。せめて、面会をして最期のときを家族ともっと時間を過ごさせて欲しかった。息を引き取る瞬間を看取りたかった。
あんなに身体は元気だったのに、その施設に寝たきりにさせられたことにより死期が早まったと思えてなりません。祖父はどんな思いで、家族と会えない半年をベッドの上で過ごしたのだろうと思うと胸がいっぱいになります。