私の祖父のお話で10数年前に死去したのですが、祖父は地区の旅行時のバスで脳梗塞で倒れました。
行き先は、和歌山の串本で、私達の当時住んでいた所は、兵庫県でした。
串本の病院よりお電話を頂き、急いで向かいました
串本まで、車で4時間以上。すでに夕方でした。
当時中学生だった私は頭が真っ白だったことは鮮明に覚えておりますが、それ以外の事は覚えておりません。
幼少期の頃毎日祖父と過ごしていたので、車の中でずっと泣いていた事も覚えております。父が急いで串本まで行ってくれて病院着いた頃、もぉ遅い時間でした。
祖父と会えた時、意識不明の重体
手術は成功したようでしたが左半身不随の後遺症が残るようで、意識が回復するかもわからないとお医者さんから伝えられました。
そこから数日間近くのホテルで数日泊まり、毎日祖父のそばにいました。
1週間経った時、私の声に祖父は反応してくれました。その時は安堵の気持ちでいっぱいでした。
ただ元気だった祖父しかしらないので、やはり左側が麻痺してしまい全く動かない状態でした。麻痺のせいか、顔も少し歪んでおり最初何を話してるのかもわからない状態でした。
やはり話し方も少し変わっており中学生の私には衝撃でした。。ただ右麻痺でしたら言葉も喋れなかっただろうと、お医者さんから言われ、少し安心はしました。
お話出来る姿が本当嬉しかったです。
そこから数ヶ月、串本の病院にて入院、リハビリの毎日でした
私達も学校などがあったため、1週間ごとの交代で電車で4時間以上かけ串本まで通っていました。
倒れた直後だったので、近場の病院に転院希望だしたのですが、長時間の移動は体に負担がかかるため、少し良くなってからの転院でした。
あまり行かなかったのですが、行くたびにリハビリを頑張ってたかいがあり、少しずつ良くなっている祖父がいました。もぉ感無量でした。
3カ月ほど入院したのち近場の病院に転院できました
近場の病院は昔からの祖父のかかりつけの病院だったため、看護師さんも多数知り合いの方がおり、祖父の場合がお喋りが1番のリハビリだった様です。
やはりすごい回復力でした、ユニークな祖父だったので、お見舞いに行くたび看護師さんと楽しそうに話しており、麻痺はしていたものの、お話と言うリハビリを頑張っていました。
左側が麻痺していため身の回りのことがあまり出来ず、たまに自分にやはりイライラする事も多々あった様です。
私はお世話は大体していました。ある日足の爪を切った時間違いで身を切ってしまった時痛い!と怒られました。左が麻痺しているのに感覚はあるんだと実感し、少し嬉しくなりました。
悪いですが、、その状態が数年。苦しいリハビリを毎日。。年々リハビリのおかげで祖父の状態はよくなっていき、左手も少しは使えるようにはなっていました、都合のいいことだけですが…笑
病院から老人ホームに入居
状況もよくなってきたので、病院から老人ホームを勧められ、老人ホームで過ごす事になりました。
その時期介護保健がまだまだ浸透してなかったので右も左もわからない状態のまま老人ホームに入居しました。今になりキチンと対応してもらってもたのか不審に思う所です。
元気になっていく祖父をみて、みんなが安心していった時でした。
祖父のお誕生日数日前、また明日来るねと言って帰宅した数時間後老人ホームから電話がありました。意識不明の重体と、急いで救急搬送された病院で機械をいっぱいつけられた祖父がいました。
先生から今夜が山場と言われその夜中死去しました。。後日死因を聞くと誤嚥性肺炎だったという事。老人ホームの方から何も詳しい話はなく。。
きちんとケアをしてもらってもらってたら。
私達が夕飯時居てあげたらと後悔しか残ってません。ただ脳梗塞でもリハビリをしていくと本当よくなるのだと実感した数年でした。